現実と出会うこと、他者と出会うこと/マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』

ブログを始める宣言から、既に1ヶ月以上が経過して、2020年に素晴らしかったものを年内に書き切るということも一切できなかった。12月は色々とトラブル続きで体力もなく…まったく有言不実行で情けないけれど、年も変わったことだし粛々と頑張っていこうと思います。
 


さて、寝食を忘れて貪り読む本、というものはあるにはあるのだけれど、そういう本とはすっかりご無沙汰してしまっていた。面白い本、興味深い本はもちろんたくさんあって、読んでいる間は面白いなあと思うのだけれど、そのせいでご飯を食べ損ねたり、お風呂に入り忘れたり、徹夜してしまうようなことは、年齢を重ねるにつれて、どんどん少なくなっていった。
風と共に去りぬ』はコロナで在宅時間が増えて、「腰を据えて、前から読みたかった長い本でも読むか…」と思って読み始めたのだった。手に取ったのは鴻巣友季子訳の新潮文庫・全5巻。1巻を読み始めた時は正直なところ、挫折したらそれはそれでしょうがないなあ、と思っていたのだけれど、余計な心配だった。1巻冒頭からあれよあれよという間に止められなくなり、寝食を忘れて読み耽ることになった。特に、4〜5巻はもう信じられないような吸引力に取り憑かれて、ページをめくる手が一切止められなくて、友人との待ち合わせの前の空いた時間に読んでいたら結果的に、その待ち合わせに大遅刻してしまったこともあった。本が面白すぎて人との待ち合わせに遅刻する…というのは、学生時代ぶりだったかもしれない。


鴻巣訳は生き生きとしていてお茶目で等身大で、上品ぶったところがなく初読で物語世界にすぐに入っていけた。そしてなにより、キャラクターが生きた存在で魅力的だった。でも、再読する時には、このテキストを違う人の訳で更に見てみたいと思って、荒このみ訳の岩波文庫・全6巻を選んだ。荒このみ訳は、最初はいわゆる「翻訳調」という気がしたけれど、読み進めていくうちに、原文の息づかいみたいなものが見えてくるような気がしてこちらも気に入った。大胆な意訳が少ないような雰囲気がして英語の文章も想像しやすく、なんだかんだで、登場人物たちの考えていることがストレートに伝わってくる気がした。翻訳によって小説のイメージが変わることはよくあるのだけれど、『風と共に去りぬ』については、細部の理解に微妙な差はあれど、二つの訳の間でイメージの誤差はほとんどなかった。どちらの訳も素晴らしいのだろうし、同時に原文に非常に強い力があるのだろうと感じる。本当ならばもちろん原文に進みたいのだけれど、原文がいかに魅力的なテクストなのかというところは、英語の読解力がなさすぎて、読めるのだけれど味わえない…という力不足なのだった。いずれは…とは考えていますが。
長く、複雑で、そして繊細に絡み合っている小説なので(マーガレット・ミッチェルはこのことを、「十年という歳月をかけて、ようやく絹のポケットチーフぐらいタイトにこの小説を織り上げたのです」と語っている)どこかを取り出したら、何かを取りこぼしてしまうのではないかという不安がある。この小説の魅力がどこにあるのかというところは、読み終えてからずっと、考えていた。たとえばスカーレットの自己中心的で強烈、しかし先進的なキャラクター像。アシュリーやレットの少女漫画的造形や、繊細かつ激しい恋の駆け引き。鴻巣訳では、ロマンス小説として読まれがちなこの作品の中で、スカーレットとメラニーシスターフッド的連帯こそが重要であるという風な押し出しがされているようだった。そのどれもが語ると楽しいものだとは思うのだけれど、もう少しだけ、自分に引きつけてみたいと思う。
 
私がまずこの物語にバチンと心奪われたのは、スカーレット・オハラの分裂した女性像が1巻から見事に描かれていたからだった。分裂した女性像というか、正確に言うとスカーレットは男性性と女性性を飼っていて、それが自分の中で全然バランスを取れていないのだった。
スカーレット・オハラが持っている男性性とは、父ジェラルド・オハラから受け継いだもので、それはアイルランドの血を含めたタフな精神であり、自分の人生を自分で切り開いていく強さであり、人を蹴落としてまで自分の欲しいものを掴み取る競争力である。一方、強烈に刷り込まれている規範としての女性性は、母エレン・オハラが代表する一歩引いて男性を影から支えるしとやかさと優しさであり、優雅な振る舞いと知性、しかしそれをひけらかしたり表に出さない控えめさだった。そしてその「偉大な貴婦人」に、スカーレット自身は抑圧されているわけではなく、憧れ、できれば母のようになりたいと欲している。しかし同時に、どうしても自分の内部に暴れる男性性を抑えつけることができない。物語内ではスカーレットの強さ=父=男性、スカーレットの憧れ=母=女性というハッキリとした等式が成り立っているので便宜上男性性・女性性という言葉を使ったけれど、厳密に言うと男性性というのはスカーレットの自我そのものかもしれない。こうありたいという理想的な女性像(それは母のイメージであり、南部社会の皆から尊敬される「偉大な貴婦人」)から、自分の自我が大幅にはみ出しているのだった。その自己分裂が物語のいたるところで顔を出してきて、その悲しさに胸を締めつけられた。母のような女性になりたいと願うと同時に、自分の本当の心が、もっと自由に生きたいと感じている。母のように生きれば、この時代を生き抜けないかもしれない。しかし、自由に生きれば世間とはどんどんズレていくとも分かっている。
この問題はまったく今を生きる私たちも、形を変えて抱え続けている問題なのではないかと、いつも思っている。いわゆる「女性」という枠からはみ出してしまう自分の中の一部分を、どう処遇していくのか。徹底的に抑圧することもできるが、それは同時に自分の人生から「自分にしかできない何かがある」という可能性の芽を摘んでいく。「これが自分だ!」と開き直って逆に自分の女性性を拒否して戦闘的に居直ることも可能だけれど、おそらく周囲との軋轢は避けられないだろうと思うし、何より自己否定に繋がっていって出口がない。端的に言って、自分の人生をしっかりと生きながらも、同時に女性であるということは大変難しい作業なのではないかと幼い頃から感じていた。(だからといって男性として生きることが簡単だと思っているわけではありません、念のため。)
この「自分の人生をしっかりと生きながらも、同時に女性であるということは大変難しい」ということをスカーレットはその激動の人生の中で、身をもって教えてくれるのだった。自我を押し殺す必要はないが、上手く手綱を握らないと、大変なことになるーー結局、最後までスカーレットは自分の中の女性性からはみ出した自我をコントロールし切ることはできずに、その嵐のようなパワーが転じてすべてを失うことになるのだけれど、その事実から目を逸らさないこと、そしてそのような女性の悲しい分裂が丁寧に描かれていることは私にとって救いだった。同時に、そこそこ年齢を重ねて、「女であるというのは、自分の人生に科されたある種の宿命の一つなので、それを嘆くわけでもジタバタするわけでもなく、この与えられた状況の中でどうやっていくかを必死に考えるしかないのだな」という風に思えるようになったのは、こういう優れた小説のいくつかの女性たちに出会えたからなのだった。小説というのは架空の世界なのだけれど、人生に確かな励ましを与えてくれる、本当に不思議な効能を持っている。


そして、その分裂性に翻弄されながらもスカーレットは生きていき、最後に女が成熟するとはなにか、というところまで物語は踏み込んでいく。スカーレットは最後の一章、アシュリへの長い幻想、そしてレット愛していることに気がつき、そしてそのレット失うところにおいて、成熟の入り口に立つ。スカーレットは物語の早い段階から結婚して子どもを産むし、両親を失うし、経済的にも自立するし、社長として事業も成功させるが、そのどれもが成熟とは描かれていない。唯一、戦火にまみれるアトランタから脱出してタラ農園にたどりつくまでの道のりが「少女時代との決別」とされているけれど、これは「守られて、のん気に生きていられる時代の終わり」という意味であり、自立ではあるかもしれないけれど、成熟ではない。スカーレットの真の成熟は、この物語の中では、現実を見つめ、他者(=男性)と真に向き合った時に設定されている。
物語冒頭から最終章一歩手前まで、スカーレットはアシュリーを愛し続けているのだけれど、そのアシュリーは自分の頭の中で作り上げた幻想のような存在(アイドル)で、そのことにずっと気づけないでいる。愛という言葉が作中でよく使われているのだけれど、日本語で表現するならばスカーレットは「恋し続けていた」というほうが正確だと思う。そして、アシュリーが現実を生きながらも心がずっと過去に囚われているように、スカーレットも現実のアシュリーと触れ合いながらも、手に入りそうで入らないイメージに恋をしている。しかし、往々にして生きていればそういうことってあるよね、と思うのだ。偶像を押し付けられるほう(アシュリー)はたまったものじゃないと思うけれど、子どもであるというのはそういうことだよね、と。つまり、世界を自分の都合の良いように見て、組み替えてしまう。相手は他人だと頭では分かっているけれど、心から腑に落ちているわけではなく、自分の見たい型にはめ込む。そして、勝手に称賛したり、勝手に失望したりする。アシュリーのキャラクター像や登場シーンは「少女漫画みたい」に思えるけれど、少女漫画とはとにかく生身の男性としての他者がいない世界であり、男性は自分の理想の反射としてしか存在していない世界であり、スカーレットもこと恋愛面においては、この世界を生きていた。ところが本当に大切なもの、自分の分身であり失われた女性性でもあり、そして最後の母の面影であるメラニーを失うときになって初めて、そんな子どもっぽい幻想など無意味でまるで自分を支えないのだと気付いて、自分の人生に本当に必要な物がなんなのかを見つめ直す。
この幻想を断念するところ、そして男性にひとりの人間として向き合い、敬意を勝ち取ろうとするところ、このあたりはもう涙なくして読めない。同時に「時間は巻き戻らない、輝いていたものは失われたらもう元には戻らない」という残酷さも突きつけられるし(余談ですがこのあたりは『グレート・ギャツビー』に描かれているある種の哀しさとそっくりで、ああ同時代の作家なんだなあと感じる)、そこで地団駄を踏むのではなく、毅然とするスカーレットは、大人への階段を登っていく。事実、スカーレットのことをずっと「子どもである」と評していたレットは、ここで愛を失ったあと、スカーレットに対してほのかに「なかなか尊敬できるところがある」というような感慨を抱いているように読める。子どもであるというのは、他人は自分の思い通りにできるとまだどこかで信じていることで、大人であるというのは、それを諦めることなのかもしれない。
子どもっぽい思い込みや自分勝手な幻想を捨て、自分の夢想に現実を歪めて入れ込むのではなく、目の前の現実を見据えること。そして他者と出会うこと。そしてできれば愛に気がつくこと。「女の成熟」とは何なのか、というのは私にとって重大なテーマで、結論はまだまだ見えてこないのだけれど、『風と共に去りぬ』は確かにその答えのひとつのようなものを突きつけてくる。


この小説を読む前まで、私は本当には小説を読んだことがなかったのかもしれない、とすら思った。たくさんの小説を読んできたつもりなのだけれど、本当に浅い読書経験しかなかったのかもしれない。小説は小説の世界であり、一瞬は心動かされたりするけれど、その作品で人生が動いたという感触は持ったことが一度もなかった。もしかしたら世の中の多くの小説が男性作家による男性の物語で、小さい頃からそういうものを名作として与えられてきて「なるほどこういうものか…」という距離を取った思い込みがあったのかもしれない。(それにしてももう少し早い段階で今回のような読書経験を持っても良かったと思うけれど、ひとえに読書量が足りないということですし、スカーレットのように私も幻想ばかり追いかけていたということでしょう)。しかし『風と共に去りぬ』を読んだら、もう過去の自分ではなくなっていた。読み終わった自分は、読み終わる前の自分には戻れないのだった。具体的に自分の人生に何かが起きたわけではないが、例えば転職をしたとかこの本をきっかけに新しい友達ができたとか、そういうことではないけれど、自分という人間の一部が作り変えられてしまった気がした。
風と共に去りぬ』を読んで、優れた小説を読むというのは「人生の点検」のようなものだと教えられた。自分とまったく異なる世界の人物のまったく異なる人生を読むことで「ところで、あなたの人生はどうですか?」と問いかけられる。問いかけられたので、自分の人生を思い返し、そしておそらくその小説を読んでいなかったらやらなかったであろう微調整をする。そしてまた、小説を読む。微調整をする。その繰り返し。そういう力を持つ本に一冊でも多く出会いたいし、また出会うためにはこちらの準備も必要なのだ。どんなに良い本でも、穴のあいたバケツには水はためられない。穴はふさぎ、水を注げる準備をしなければならない。